ライフストーリーVol.6〜母との別れから悟った人生観〜

発覚した、母の病気

独立して仕事をするようになってから、初めての年末年始。

僕の実家に妻と2人で帰省した。

徐々にコーチングも仕事になり始め、父や母にも心配をかけずに済むなと思っていた頃、予想だにしない言葉を母から告げられた。



それは、帰省した日に、妻と母と3人で、夕食を食べていたときだった。

いきなり母がかしこまって、話があると言い出した。



仕事を変えるとか、そんな話かなと思っていたら、もっと深刻な話だった。



「母さんね、癌になったの」



泣きながら、そう告白する母の言葉を聞いて、妻も泣きだした。

僕はというと、あまりにも突然のことすぎて、ただただ信じられなかった。

まだ50代半ばだったし、一見すると、元気そうな母のままだったから。



それに今は癌でも治る時代。

ちょうど1ヶ月後に手術もするとのこと。

僕もしっかりサポートをして、早く回復できるように支えようと心に決めた。

手術をしても好転しない母の身体

母の病院に付き添ったり、ご飯をつくったりとせわしなく過ごしていると、手術の日がやってきた。

仕事で忙しい父も弟も揃って、手術に向かう母を送り出した。



手術はその日のうちに無事終わり、母も思ったより元気そうだった。

食事もしっかり食べていて、これはすぐに退院できるかもと思いきや、抱いた希望が見事に打ち砕かれた。



その後、母の身体は食事をなぜか受けつけなくなっていった。

食事がとれなくなると、だんだん身体が弱っていく。

やがて、部屋の中にあるトイレにさえ、歩いて行くのが困難になっていった。



そんな母の姿を見るのは、とても辛かった。

それでも僕と妻は、ほぼ毎日お見舞いに行き、父と弟も土日や平日の夜を使って病院を訪れた。

家族全員で母の回復を祈って、懸命にサポートをした。

母との別れを覚悟した夜

そんな家族の願いも虚しく、母の状態は良くなるどころか、悪化していった。

そして、入院して、2ヶ月が過ぎようとしていた頃。

とうとう、僕が覚悟をしなければいけない日がやってきた。



ちょうどその日は、たまたま1人でお見舞いに行っていた。

容体が良くないながらも、お見舞いに行くと、いつも母とはおしゃべりができた。



でもその日は違った。

母は喋ることすらしんどそうで、ずっと寝ていた。

まるで意識がなくなってしまったようなその姿を見た時、僕は涙が止まらなくなった。



今までは、ずっと治るものだと思っていたけど、いよいよそれが難しいと悟ったのだ。

ずっと考えないようにしていた、母との別れが迫っていることを。



それがわかった時、声を上げて泣いた。

母が起きたら、心配をかけてしまうので、そっと病室を出て家へ戻った。

真っ暗な夜の中を、顔をぐしゃぐしゃにしながら、自転車を漕いで。



あの時ほど、支えてくれた妻の存在に、感謝したことはない。

母の病気から見出した「幸せ」

そして、それから約1週間後。

桜が美しく咲く春の穏やかな陽気の中、母は帰らぬ人となった。



正直、今でも寂しくなるし、この文章を書いている今も、当時を思い出して泣いてしまっている。

孫の顔を見せたかったし、一緒に旅行にも行きたかった。

もっと親孝行がしたかった。



そんなわけで、この母との別れは辛かったけど、実は1つだけ幸せだったこともある。

それは、母を元気づけるために、家族全員が何度も集まったとき。

僕や弟が子どもだった頃から、家族でつくってきた思い出について、数え切れないほど話をした。



昔住んでいたマンションでの話から、家族旅行での話。

母が怒り狂った話から、父が持っている鉄板の笑い話。

ネパールでの僕の結婚式の話から、弟の留学の時の話。



うちの家族は、決して仲良し家族ではないと思っていたけど、それでもたくさんの思い出をつくっていた。

それに気づいた時、僕はとても幸せを感じたのだ。

たくさん喧嘩もしたし、理解できないことも多々あったけど、僕はこの家族の一員で良かったと心から思えた。


そして、これからは、妻とそんな家族をつくっていくと決めた。